クリスマスプレゼント、悩みますよねえ。でも、楽しみでもある。クリスマスときいて思い浮かぶのは、パーティーと笑顔とケーキとごちそうとイルミネーションと歌と・・・寒い季節のあたたかくて幸福なイメージばかりである。
クリスマスといえば、キリスト教のイベントかな、とは思うものの、クリスマスにプレゼントをあげるのはなぜなのだろう。もしかして重要な意味とかあるのだろうか、それとも意外な習慣が元になっているとか。クリスマスにプレゼントを贈る理由について調べてみた。
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クリスマスとはそもそも
クリスマスとは、イエス・キリストの「降誕」を祝う祭りである。
クリスマスという言葉は、「キリストのミサ」という意味で、「ミサ」とは、イエスが人々のために死に、3日目によみがえったという出来事を思うカトリックの祭礼のことである。
だけど12/25はイエスの「誕生日」ではない。
ややこしい。
イエス・キリストの誕生日は不明。世界中の誰も知らない。聖書には書かれていないそうだ。もともと当時のユダヤには誕生日を記録する慣習や法律がなかった。とすると12/25という可能性もあるかというと、研究では、状況描写などから春か秋に生まれたといわれていて、12/25ではないことは確かである。
では、「降誕」とは何か。
広辞苑を引くと、
- 君主・成人・高僧などがこの世に生まれ出ること
とある。
それを踏まえると、クリスマスとは、
- 神の子であるイエス・キリストがこの世に現れたことそのものを祝うお祭り
である。
では、キリストの誕生日ではない12/25に、なぜクリスマスを行うのか。
それはいわゆる大人の事情によるらしい。
キリスト教が誕生してから最初の200年間は、クリスマスはなかったらしい。キリスト教徒の記録に全く出てこないそうである。先に述べた通り、キリスト誕生当時のユダヤ人の慣習では誕生日は記録されていなかったそうで、むしろ誕生日を祝う習慣は異教徒のものだと考えられていた。
しかしながらキリスト教は布教のため、いや勢力拡大のため、その異教徒の祭りに乗っかった、というのが実情らしい。
12/25にクリスマスが行われた最初の記録は、336年。キリスト教徒となった最初のローマ皇帝、コンスタンチヌスの時代である。その後350年に、ローマ教皇ユリウス1世が、12/25にイエスの誕生を祝うことを公式に宣言したと言われている。
当時のローマでは、12月にサートゥルナーリア祭が盛大に祝われていた。ミトラ教という宗教では、太陽神ミトラスが冬至に再び生まれるという信仰があって12/25を祝っていた。
キリスト教は、この日をイエスの誕生の日として取り込んだのである。
太陽が再び生まれる光の日、イエスという光が地上に舞い降りたと重ね合わせた。
12/25は今ではすっかりキリスト教を代表する日となっているわけで、ミトラ教を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか。キリスト教会の政治戦略はこのころから卓越していたというべきか。
他にも、ユダヤ教の光の祭であるハヌカーとも同じ時期である。そして、受胎告知の日である3/25から数えて9か月であることなども理由の一つであるとされている。
クリスマスプレゼントの宗教的意味
クリスマスにプレゼントをあげたりもらったりすることのキリスト教的な意味は、
- 東方の三賢者(三博士、三賢人)がイエスに贈り物をささげたことを思う
ということ。
イエスが生まれたとき、ユダヤ人の王として神の子が生まれたことを聞いた賢者たちが、東からイエスのもとにやってきて、祈りと贈り物をささげたという。
それらの贈り物は、乳香、黄金、没薬であった。
乳香は、人々がイエスを崇拝することを意味している。ユダヤ人の宗教儀式で使われていた香料。
黄金は、イエスが王であること意味していている。
没薬は、死体につける香料として使われていて、イエスが苦しみ死すことを意味していた。
また他に、
- 神が人々へイエスという素晴らしいプレゼント与えたことを模倣するため
- イエスに代わって人々へ与えるため
- イエスにプレゼントすることはできないかわりに誰かに贈る
といった考え方もある。
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キリスト教以前の冬のプレゼントの習慣
キリスト教がこの世に現れるずっと前から、西洋には、
- 冬に贈り物をする習慣
があった。
先に出たサートゥルナーリア祭や北欧のユールなど西洋の伝統的な冬の祭りでは、小さな贈り物をする習慣があった。
民族学者のレヴィ=ストロースによれば、西洋の冬は伝統的に死者に贈り物をする「贈与の季節」であるという。冬は太陽が弱く短くなり、生者の力が弱まって、死者が徘徊する。人々は、死者に贈り物をするという儀礼を行い、死者のご機嫌取りをしておとなしく帰ってもらい、この世界の秩序を取り戻そうと考えた。
その儀式では、若者や子どもたちが死者の扮装をして、死者の役をし、大人たちがご馳走などの贈り物をした。子どもたちは大人よりもあの世に近い存在、あの世とこの世の間の存在だと考えられていたため死者の役をした。
クリスマスを12/25にしたことでこの伝統的な習慣もキリスト教は取り込んだ。
以後死者の役は、子どもから日本のなまはげのような怖い大人に変わり、怖い死者が悪い子どもは鞭でたたき、よい子どもにはプレゼントをくれるとうものになった。この怖い死者は後に子どもにやさしいサンタクロースにとってかわられることになる。
設定は変わったが、プレゼントを贈るという習慣は今も変わっていない。
クリスマスプレゼントの習慣には、キリスト教由来ではない、古代からずっと受け継がれている贈与の習慣が色濃く反映されている。
キリスト教はどちらかといえばそれをキリスト教的に一応意味づけしていると言っていいだろう。
クリスマスプレゼントは、キリスト教徒だからすることというよりは、冬という不安に打ち勝つため、人々が贈らずにはいられないものなのかもしれない。
現代のクリスマスプレゼントの習慣
現代のクリスマスプレゼントの習慣は、宗教的意味や伝統的習慣に、アメリカ的商業主義が加味されて、世界的なイベントに生まれ変わったと言えるだろう。いやむしろ、プレゼント合戦というべきか。
クリスマスは、もはやキリスト教徒だけのものではない。少なくともキリスト教徒以外の人には宗教的意味はなく、祝祭気分が盛り上がるイベントである。たいていの日本人もその典型であろう。
なぜクリスマスにプレゼントをあげるのか。
現代では、それは
- 楽しみのため。
- 人を喜ばせるため。
- 愛の気持ちを表すため。
- 感謝の気持ちを表すため。
- 義理。
他の贈り物をする機会とあまり変わらない理由だなあ。。。
とはいえ、この時期はチャリティが多く行われ、チャリティプレゼントも多い。これは持たない人へ持つ人が与えるというキリスト教的な行いと合致していて、このことでキリスト教が評価されることが多いだろう。
ビジネスのプロモーションのためというプレゼントもある。お金のためというともともとの意味とはまるで違うように感じるかもしれないが、だからこそ普段では届かないところに届くということも多々あることだろう。
そして思うに、何より人はプレゼントすることが気持ちいいからあげるのである。
きっとクリスマスは、プレゼントして気持ち良くなる、という欲望を満たす格好の機会となっているのではないだろうか。それはいいことしたなという自己満足だけではない。贈るだけではなくて贈られるほうでもあるのだから。それはうれしいことのほうが多いはずだ。ちゃんといいことしてる。
いやー資本主義はいいポイント見つけたなあ。商売は儲かるし、買うほうもハッピーになれる。
クリスマスプレゼントがなんだか現代的幸せの象徴みたいに思えてきた。
まとめ
現代、クリスマスにプレゼントをあげる理由は、冬に贈与をするという西洋の古来の習慣とキリスト教と商業主義が結びついて、人々の贈与したい欲望を満たす習慣となっているからである、とわたしは結論してみた。
キリスト教の宗教的意味では、神から人々への最大のプレゼントである神の子イエスが生まれたときの東方の三賢者のエピソードを思い出すためとされている。
おまけ
日本に生まれて、キリスト教についてはあまりよくわからないけれど、クリスマスは小さいころからとても楽しみだったなあと思う。理由はよくわからない。ただ、なんか楽しい会やパーティーがあって、いつもとは違う服を着て違う歌を歌って違う飾りのケーキと違うご馳走を食べて、プレゼントがもらえて、プレゼントを選んで、街の中はキラキラしていて、家の中もかわいい飾りをして、なんだか素敵な非日常を味わえる出来事だった。
思うにおそらく世界のほとんどの人にとってクリスマスとはそういう季節なのではないだろうか。人々がいつもよりやさしくなって笑顔になる季節。
今回調べてみて思ったのは、キリスト教徒であるならきっと大切な人たちだけでなく、世界の人々のことを思う季節なのかなということ。そういえば戦争しててもクリスマスには休戦とか聞く。
12/25にキリスト降誕祭をするという決断は、世界中で幸福を共有しているようにみえるのだからやっぱり英断ということかな。
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